師と仰ぐ安岡正篤翁の言葉を知古嶋芳琉氏が現代言葉に書き直した文章です。
立派な人物は「心を利済(りさい)に尽くし」、「利」は鋭い、「済」は経世済民の済で救うという意味。「海内」は天下のこと。つまり、士君子たる者は一身の利害などにケチケチせず、世の中を治めよう、救おうと心を尽くし、天下に必要欠くべからざる人物となれば、天もまた自然にその人物を欠かせるわけにはいかなくなる。これが「立命」というものである。
いつの時代でもそうだが、人間というものは「命」の存在である。命の第一の意味は誰も知る命のこと。絶対のものである。なんで命があるんだとか、必要なんだとか、大切なんだということは意義をなさん。命というものは天地の創造である。必然・絶対のもので、何故という疑惑や打算を入れる余地のない第一原則である。天地万物の創造、あるいは変化・造化の働きで、必然のもので、動いてやまざるもの、少しもとどまることなきものである。その意味で「運命」という。
運という字は、動くという字であり、巡るという字である。つまり、運命とは天地自然のもので、存在するもの一切はこの支配に服する。そこですべての存在、命をもって動くものを「生命」というわけです。
ところが、鉱物から植物になり、動物になってくるに従って意識というものが生じてくる。植物にもある程度は意識がある。最近、植物学者の書いているものを二、三見たことがあるが、感覚というか、ある意味の意識を持っておる植物があるようだ。となれば、生きとし生けるものみな意識を持っておる。
そして、その意識の発達したものが「心」、さらに突っ込めば「魂」ということになる。つまり「生命」は性命、心、魂を持ったもの。好むと好まざるとにかかわらず、理由のなんたるを問わず、そういうものを超越した天地創造の中の決まりきった、疑うことを許されない一つの存在である。
そしてそれは、自分に始まったことではなく、天地自然と共にあるということで「宿命」ということになります。生命は運命であるとともに宿命である。しかもその宿命は、高等生物になればなるほど、心が発達して必然的に「いかにあるべきや」という「義」の問題が生じてくる。これを「義命」と言う。人間の生命は、宿命であると同時に意識・精神が発達して「義命」というものを宿す。そこで人間は宿命と同時に義命によって、よく天地の創造・造化に参じて、その命を造り、義命を立てていく。
これがいわゆる「立命」というものであります。つまり、自分はどんな運命、見方を変えればどんな宿命によって「かくのごとく存在しておるのか」、それを常に新しく創造進化の道に従って、いかに実践していくかというのが「義命」であり、それをいかに創造していくかというのが「立命」。運命の中に宿命があり、義命があり、立命がある。運命というものは、宿命であると同時に義命であるから、立命することができます。
終戦のとき、私は天皇の詔勅に「義命」という文字を入れたかったが、当時の閣僚が「こんな難しい言葉はわからん」と言ってその言葉を避けた。そして「時運の赴く所」という運命説をとった。これは実に惜しいことであった。日本の天皇、天子は最も道義の象徴であるから、「義命」を尊ぶのが天皇の道、皇道というもので、風の吹きまわしで考え行動すべき人ではない。人はどこまでも真理に従って生きる、死すべき時は死ぬ、生きる時は生きる。一に道義の絶対的なものに従う。
それなのに時の起草者は「時運の赴く所」と書いてしまった。戦争は負けた、これは時運だと。時の運命だから仕方がない、だから「時運の赴く所」で戦争をやめる降参するというのでは詔勅ではない。詔勅はどこまでも真理に従って生きる。「義命」なのである。
だから「義命の存する所」と言わなければなりません。これが一番大事なところだったが、残念ながら、時の内閣は「義命」なんて言葉は聞いたことがない。我々でさえ知らんのだから国民がわかるはずがないと安直に考えて「時運の赴く所」となってしまった。あれは日本の戦争史上、国体史上、天皇史上千古の惜しむべき失敗でありました。
ヨーロッパやアジアのどこかの天子・君主なら風の吹きまわしで降参することはありがちだけど、日本の天皇には絶対にあるべからざることである。本当の学問というものは一つの言葉に無限の意味があり権威がある。それが真理であり、義であるとなれば、勝った戦もやめる。場合によっては負けて国を失ってもやむを得ない。
一に真理に従って思索し行動することでなければ皇道ではありません。常に打算してやって動くのは覇道だ。いま、中国で覇道が問題になっているが、日本の学者やマスコミは王・覇の別、王道と覇道、さらに日本の皇道をよく解明し、国民に教えるいい機会なのだ。覇道とはなんぞや、王道とはなんぞや、皇道とはなんぞやということを明らかにするいい機会が到来している。
こういう問題をとらえて意義をはっきりと解明し、国民に本当の活学、活きた教育をする。それこそが先覚者・大学者・政治家・大臣のなすべき務めである。日本はこれからこの「義命」を立てて「立命」していかなければならん。
宿命観ではいかんのであります。日本はどうなりつつあるのか、これをいかにすべきやという「義命」を明らかにして、それに基づいて日本の運命を「立命」していくことが絶対に必要であります。これは国家ばかりではない。我々自身もそうだ。「運命論」「宿命論」はわかりやすいけれど、「義命」となるとなかなかわからない。
しかし、わからなければ本当の意味の「立命」はできない。風の吹きまわしに終わってしまう。この命の論・学、すなわち運命学・立命学・義命学、これは大変に大事な学問であります。