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イヤフォンと一般オーディオの違い・・・そのA

イヤフォンと一般オーディオの違い・・・そのA

イヤフォン&ヘッドフォン・オーディオの世界が花盛りだ。今や世界的な有名ブランドから無名の新興ブランド、さらには異業種からも参入し百花繚乱の状況と言っても良い。ここまでの隆盛を果たして誰が予想したであろう。

かく言う私もイヤフォン&ヘッドフォン・オーディオは住宅事情によりスピーカーで聴けない方や野外で音楽を楽しむ方の為のものと思い込んでいた。ひょんなきっかけから飛び込んだイヤフォン&ヘッドフォン・オーディオの世界だが、今ではこんな面白い世界はないと毎日わくわくドキドキしながら取り組んでいる。


反応がダイレクトなイヤフォン&ヘッドフォン・オーディオ

イヤフォン&ヘッドフォン・オーディオはピュアオーディオに比較して格段にシンプルだ。オーディオは、プレーヤー→アンプ→スピーカー(またはイヤフォン&ヘッドフォン)の組み合わせが基本である事は共通だが、ピュアオーディオの場合は高級になるとさらに細分化され、CDトランスポート→DAコンバーター→プリアンプ→パワーアンプ→スピーカーと、複雑化する。

これは音を左右する要因が増えるという事だ。ところが、イヤフォン&ヘッドフォン・オーディオでは、スマートフォン→イヤフォン&ヘッドフォンと、シンプルな組み合わせが可能なのである。

その上、さまざまなノイズで汚染された商用電源を動力源とするピュアオーディオと違い、バッテリー駆動とする事で厄介なノイズから逃れられるのだからスタートから有利なのである。

バッテリー駆動とシンプルな構成。イヤフォン&ヘッドフォンオーディオは因と果が明解であり、やった事がダイレクトに結果として出てくる、それこそ手に取るように判るのだ。そして、一番嬉しいのはお客さんの反応が同じようにダイレクトなのだ。


ピュアオーディオ的な価値観での評価とは

ところが、イヤフォン&ヘッドフォン・オーディオが“ゼニのとれる”マーケットである事が判り、既存のオーディオメーカーや専門店が参入してくると、ピュアオーディオ的価値観で評価する人たちが現れてきた。また、それに対応するような製品も出てきた。

では、ピュアオーディオ的な評価とはどういうものだろう。
例えば、A社のイヤフォンの評価
「コストの関係かややレンジ感が狭く感じるが中域の充実した音。イヤフォンの割には低域は十分だが高域の情報量は不足気味でやや雑味を感じる。」

B社のイヤフォンの評価
「ハイレゾ対応の高級品。新開発の3つのドライバーを用い最高域は50kHzと周波数レンジが広く、特性もフラット。情報量が豊富で歪感も極めて少なく分解能も優秀。透明で混濁感のない音質だ。」

C社のヘッドフォンの評価
「国内をはじめ世界各国のレコーディングスタジオで使われているだけあって、明解で正確なまさにクリアな音調だ。どんな音も細大漏らさずに再現するのはさすがにモニターの定番といえる。」
まあ、要約すればこんな感じだろうか。


これを私が評価すればこうなる。
A社のイヤフォンの評価
「ボーカルが良い、打楽器も躍動感に溢れ、音楽が溌剌としている。レンジを欲張らなかったことが功を奏しているのだ。疲労感を覚えない音なので長時間聴いていられるのは有難いし、この価格でここまで頑張ったなとほめてやりたい。」

B社のイヤフォンの評価
「ハイレゾ対応だそうだが私のリファレンスであるiphone6で聴く限り一体何を言いたいかわからない音で音楽の生気を感じられない。どの音楽を聴いても楽しくない。」

C社のヘッドフォンの評価
「はっきり、くっきりしたメリハリのある音調で細かい音もよく出るが、どの音楽も一本調子で楽しめない。仕事として音楽を聴いているようだ。それに長時間聴いていると疲れる音質だ。」

さて、どう感じただろうか、あなたはどちらのタイプだろうか?どちらのレビューを読んで製品を買いたいと思うだろうか・・・。


自分の感覚を信じる

枝葉末節に拘泥するピュアオーディオ的価値観に染まった(汚染された)人にはもう治療法はないので仕方ないが、健全な肉体(耳)と精神(感性)を持つ若い皆さんには、こういうピュアオーディオ的な画一的な評価軸で捉えるのではなく、自分の感覚を信じ、その感性をイヤフォンやヘッドフォンを通じて磨いてほしい。

例えばこんな感じでも良いではないか。
今までモディファイしたお客さんの反応である。
「これでロックを鳴らすと、なんか体中がカッと熱くたぎってきた。これはやばい!」

「これ、私にぴったり!イヤフォンと鼓膜が一体化してしまってそこに歌い手がいるみたい。」

「パーカッションが獣のような速さで右の耳から左の耳へ、歌声が脳天を突き抜ける。まるでアマゾンのジャングルの真ん中にいるみたいだ。」(ブラジル音楽を聴いて)

「アコースティックギターの弾き語りが心に沁みてきて涙があふれて止まらない。」

こういう姿が本来の音楽を聴く行為であり感動なのだ。音楽は生の表現なのであり、オーディオはこれを表現できなければならない。


世界にはまだまだ素晴らしい音楽がある

その事に気づいて欲しいが為ブログにさまざまな音楽の動画を載せている。世界には素晴らしい音楽に満ち満ちている。70年近く生きてきたこの私が今更ながら驚くくらいなのだから、若い皆さんが無反応なわけがない。ぜひブログのyoutubeで私が選りすぐった素晴らしい音楽を楽しんで欲しいのだ。

今巷にあふれる音楽の大半は日本か英米の音楽だ。私が若かったころの方がむしろ多彩だったと言ったら若い人は驚くだろうか。進駐軍はアメリカからジャズを持ち込み、リズムの饗宴に若者は熱中した。明るいアメリカンポップスは豊かな国、アメリカの象徴であった。

そして、エルビス・プレスリーが登場し、より強烈なビートを持つロックが生まれる。プレスリーは英国の若者を虜にし、ビートルズやストーンズたちを生み落とし、テクノロジーの進歩とともにロックはその破壊力を増して行く。

一方で私たちの世代は中南米やヨーロッパの音楽もよく聴いた。ここが今の時代と違うところだ。ラテンの強烈なリズムに酔いしれた。ザクザクとリズムを刻むタンゴは心臓の鼓動のようだ。ボサノバの涼やかな響きはそよ風のように私の頬を撫で、フォルクローレの笛の音は野を渡る。

シャンソンに耳を傾けては遠きパリに憧れ、カンツォーネに地中海の紺碧の空と海を想うのだ。フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、アメリカ、それぞれの国にムード音楽の楽団があり、その音楽は喫茶店のBGMとして私たちの日々の暮らしとともにあった。

その音楽は地味だけれども、それは時に恋人たちの愛の語らいを、ある時はつらい別れを、静かに演出したのだった。そして、日本の音楽人は欧米から取り込んだ音楽に大和民族が古来育んできた「あわれ」や「おかしみ」の心を注ぎ込み、昭和の名曲を生んだ。

しかし、ロックの波が世界を覆い尽くすと、これらの音楽は精彩を失って行った。そのロックも今や袋小路に入ってしまい、私たちは無我夢中になれる音楽を失ってしまったように思える。同時にオーディオも衰退して行った。

ところが、もう一度世界に目を向けてみると、この現代においてもブラジルやアフリカの音楽は生命・肉体の躍動に満ち、齢70にならんとする私の心と体を捕えて離さない。

「この音楽、この精神こそ、真の自由であり、民主主義ではないのか!?」

私たちが失ってしまった、心と体から自然に発露さられるところの音楽があるのだ。ぜひ、頭をからっぽに、体を全開にして、ブログにアップしたyoutubeを開いて、これらの音楽を聴いて欲しい。必ずや気づきがあるはずだ。


ピュアオーディオとは違う価値観で評価すべき

イヤフォンやヘッドフォンはその大きさから出来る事は極めて限られる。ピュアオーディオの価値観や手法を持ち込む事は構造を無理に複雑化させ、シンプルさこそが最善の結果を生んでいるイヤフォン&ヘッドフォン・オーディオに弊害を生むだけだ。

価格も高くならざるを得ないだろう。そうなると今のピュアオーディオのように客離れを起こす事になり、早晩衰退への道を辿る事は明白だ。この轍を踏んではいけない。

イヤフォン&ヘッドフォン・オーディオはピュアオーディオとは別の発展、いや、オーディオ本来の姿に戻るべきであろう。なぜならイヤフォン&ヘッドフォン・オーディオはピュアオーディオ以上の可能性を秘めているのだから・・・。

平成29年2月、来る春を想う夜に
貝崎静雄