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良い音の奥義は「間」にあり

良い音とは ”Good Vibration”

40年以上オーディオの仕事を続けていて、そして、この数年間多数の車をオーディオのノウハウでチューニングして改めて確信したのは、オーディオにおいても車においても振動は大別すると二つしかない、それは、心地良い振動と不快な振動である、ということだ。

これを音楽用語で言えば、和音と不協和音となる。私のやらんとしているのは、電気仕掛けのステレオから音楽本来の和音を引き出してやるにはどうしたら良いかであるのだが、一言で言うならば「間」をどうとるか、なのだ!

間抜けとはタイミングが悪い人、間が悪いとは人間関係が苦手な人の事を言うが、この「間」合いが取れる取れないは努力によってどうにかなるものでもない。何故ならばその人の持っている振動のテンポであり波動周期だからである。


「間」とはタイミングでありスペース

さて、日本語の「間」とはタイミングであると同時にスペースでもある。つまり時間と空間の両方を一語で表している。これを「時空」と言い換えることもできるが、「時空」だと遥かなる時間と大いなる空間のイメージとなってしまい少々ニュアンスが異なる。

「間」の持つ時間的な意味合いにはある程度の長さの時間という意味と同時に、瞬間というか「刹那」に近いニュアンスの意味がある。武道の達人やF1レーサーが極めて短い間(刹那)に無限ともいえるくらいの膨大な情報を感知、演算し、判断するような意味合いも含んでいるような気がする。

空間的に「間」という言葉が単独で語られる場合、茶室のようなどちらかというとやや狭い空間を指しているように思えるが、狭いにじり口から茶室に案内された途端に無限の空間を感じるような空間性をも含んでいる。そして、茶室での茶事は悠久の時間にも匹敵する時間性を持つのである。

このような融通無碍なる空間性、時間性の概念を「間」という言葉は備えているのではないだろうか。このように日本語の「間」という言葉は「ま」という一音でありながら極めて含蓄に富んでいるのである。


日本語の特性と日本人の脳

「間」という言葉につきあれこれと考えているうちに脳裏に浮かんだのは、日本語の特殊性である。日本語は不思議な言語で「間」のように一つの語で多くの意味を持つ場合が多い、また同じ発音でさまざまな意味の言葉が存在する。

例えば、振動のシンという音なら、振、震、新、真、信、心、伸、進、深、芯、審、身・・・と連想は広がっていく。漢字を産んだ中国語もそうではないかと言われそうだが、日本語の場合は漢字由来の音読みだけでなく、大和言葉由来の訓読みの場合もそうである。

例えば「間」(ま)であれば、
間は、真に繋がり、魔にも繋がる。
間は、摩ともつながり、痲に繋がる。
間は、「馬が合う」の馬と繋がる。
魔が差す、は間が刺す瞬間でもある。

まさに日本語の妙味である。英仏独などの西洋の言語でも私の知る限りこのような例は極めて少ない。このような特性があるからこそ短歌や俳句などに見られるように、極めて短い字数で人の喜怒哀楽から大自然の移ろいまでを表現することができるのである。

日本人の血を受け継ぎ、日本に生を受け、日本語で育ったからこそ千変万化する音の世界に対応する「脳」を授かったのだろう。21世紀に生きる日本人として八百万の神と山川草木に至るまでのすべての仏性、そして悠久の歴史を刻んできた有名無名の祖先達に感謝しなければならない。

そして、私がこの世に生を受けたその使命は何かと己に問うたとき、それはやはり音の世界を通じて、音楽の感動=生命の躍動を世界(娑婆)の人々に届けることなのだと思いを新たにした。


脱小乗オーディオ

私がイヤフォン/ヘッドフォンの世界に足を踏み入れたのも、今やそれが音楽の聴き方の主流になりつつあり、音楽を愛する人々に音楽の真の感動を届けるには避けて通れない道と考えたからだ。ピュアオーディオだけでは一部の人のみが救われる小乗仏教に過ぎないのである。

カイザーサウンドは大メーカーではないが、多くの音楽ファン、オーディオファンと絶妙な「間合い」を取りながら、皆様にとって良い音への架け橋となるような存在となれば幸いと、ある時はお客様と、ある時は協力会社のオヤジと、ある時は社員である息子と丁々発止議論し、切磋琢磨しながら、「昨日より良い音を」を合言葉に立ちどまることなく音の真実を究明する日々を送っている。

私に残された時間もそう多くはないところまで来たが、皆様から感謝、感激の言葉を頂く度に、私の人生も今や「男冥利に尽きる」のではないかと感謝している。

さあ、男貝崎、老兵なれどエンジン全開!まだまだ前へ進みます!!

2016年9月吉日
貝崎静雄