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「念書」求めた江川サイド 江川騒動 (中)

2011.12.11 MSN [阪神タイガース事件史]

江川が抱いた「不信感」

昭和54年(1979年)2月1日午前0時15分、東京・大手町の読売新聞東京本社。巨人側から長谷川実雄、阪神側から小津正次郎両球団社長が出席して行われた真夜中のトレード発表。金子鋭コミッショナーの"強い要望"通り「交換トレード」という形ですんなりと決着をみたかに思える『江川騒動』だったが、実際はそう簡単には進まなかった。

コミッショナーの"強い要望"を受け、巨人はすぐさま江川卓との契約を白紙に戻した。ところが今度は江川が阪神との契約に難色を示したのだ。阪神と契約を結ばない限り巨人への移籍はない。江川サイドもそれは十分に分かっているのだが、それ以上に「阪神が信用できない」というのである。

小津球団社長は一貫して「野球協約の順守」を主張していた。「協約破りは球界の秩序を乱し、崩壊につながる」との信念からだ。当時の野球協約には「新人選手の公式戦開幕前の移籍(トレード)は禁止。また、移籍を前提とした獲得も禁止する」とあった。強い要望はまさに協約違反そのものだった。

とはいえ、順守はあくまでも「建前論」。金子コミッショナーの「責任はワシが取る」という発言もあり、阪神側とすれば「しかたなく」という体裁さへ整えられれば、年明け早々にも巨人への移籍交渉を進めたかった

江川サイドは阪神と契約するにあたって、巨人への移籍を承認する念書とキャンプ前のトレードを要求した。後者はOKでも前者はさすがに受けられない。何度となく行われた交渉は平行線のままむなしく進んでいった。

1月27日、小津社長はこんなため息をもらしていた。

「なぜ、彼はウチの立場を理解できないんだろう。ここまでウチに不信感を持っている、いや、嫌われているとは思わなかったよ。だから、言ってやったんだ。そんなに念書がほしけりゃ、巨人からもらえ−とね」

取材を終えて編集局に戻ってきた左方直樹キャップは、いまの心境をうたった小津社長の句を原稿にしていた。

『寒の灯におのれの影と争へる』 『凍てきびし語りて心遠き人』


「悪役」誕生の瞬間

江川が巨人から「念書」をとったかどうかは定かではない。だが、「ノンプロへいく」とまで言い出していた江川が31日、ついに阪神との契約書にサインした。東京・芝の東京グランドホテル「菊の間」で行われた江川の記者会見は初手から殺気だっていた。

記者たちは巨人が宮崎キャンプ出発のため羽田空港にやってきた小林を引き戻し、ちょうどこの時間にトレードの説得にあたっていることを知っている。そんな巨人の動きにはふれず、江川との契約に至る経過だけを説明する小津社長に野次(やじ)が飛んだ。

「巨人とは出来レースか!」「協約を順守するんじゃなかったのか!」

記者たちの質問は社長の隣で他人事のような顔をして聞いていた江川に向いた。

−−阪神で何勝できると思う? 鼻からの意地悪な質問に江川もぶ然とした表情で答えた。

「まだ契約したばかりで、考えておりません」

−−考えてないとはどういうことか?

「だから、考えておりません」

−−契約した以上、ちゃんと阪神のユニホームを着て、キャンプに行くんだろうね?

「小津社長と話し合ってないのでわかりません」

−−わからない? 何言ってるんだ。キャンプはあしたからだぞ!

−−巨人とのトレードの話はどうなっている?

「いっさい聞いておりません」

−−それじゃぁ、答えにならん。ちゃんと返事しろ!

「まぁ、そうムキになって質問されても困るんですけどねぇ。興奮しないで、抑えて、抑えて」

中央の演台には30本以上のマイクが立てられ、15台以上のテレビや映像カメラが回っている。会見の一部始終が全国に放映され、江川の「悪役」は定着した。

一方、小林の会見は真夜中に行われた。東京・紀尾井町のホテルニューオータニで行われた通告と説得はなんと8時間以上に及んでいた。午前零時過ぎ話し合いを終えた小林は気丈に語った。

「阪神にお世話になることになりました。同情はしてほしくありません。ぼくは野球が好きですから。これからもずっとやっていきたい。阪神さんの強い要望で、いやいや行くのではなく、阪神のために精いっぱいやりたい」

悲劇のヒーロー・小林の誕生である。そして2月10日、大阪・梅田のホテル阪神で入団会見を行い、「犠牲になったという気持ちはありません。ぼく自身、今でも巨人が好きですから」と笑顔で高知・安芸キャンプに向かった。


運と名声…

人によく聞かれる。「小林はやっぱり心の底では巨人を恨んでいたんじゃないか」と。たしかに悔しさはあった。トレードに出された53年のシーズンは13勝12敗2セーブというやや不本意な成績に終わったものの、その前2年間はいずれも18勝。堀内、新浦の両ベテランを抑え「巨人の新エース」に君臨していた。そんな、自分を放出? その寂しさと悔しさは阪神の一員となった54年、巨人戦8戦全勝、22勝9敗1セーブ、沢村賞獲得という輝かしい記録につながった。

私もその年の12月にめでたく入社1年目で「トラ番」を拝命。小林との付き合いが始まった。とにかく取材すればするほど、これまで私が持っていた"投手の概念"が根底から崩れていった。

マウンドに上がった小林は投げる前に必ず数秒間、センターのスコアボードを見る。

「あぁ、あれね、この回に誰にヒットを打たせればいいかを考えているんだよ」

えっ、わざとヒットを打たせる?

「投手にとって一番さけたい状況は3、4番の前に走者を出すこと。逆に迎えたい状況は先頭打者が投手になること。どうやれば、そうなるかを考えたら、ときにはわざとヒットを打たせることもある」

こんなこともあった。ある試合で小林は下位打線の特定の打者に2安打、3安打と打たれた。主力打者はピシャリと抑えているのに、その打者には簡単に打たれた。初めは「相性の悪さ」だと思っていた。ところが…。

「完投する場合、必ず終盤に苦しいイニングがやってくる。ピンチに立ったとき仮にその打者に打順が回ってきたら、相手ベンチは"今日の小林とタイミングが合っている"と、代打を送らないかもしれない。そのとき本気で打ち取ればいいんだよ。野球はヒットの数を争うスポーツじゃないってことだよ」。白いキャンバスに絵を描くがごとく、一回の1球目から九回の最後の1球まで、完投のシナリオを描ける投手だった。

話を元に戻そう。実は私も同じような疑問を持っていた。そこで新米記者の特権−とばかり躊躇(ちゅうちょ)なく質問した。

−−やっぱり、巨人を恨んでるでしょう?

「出された恨みか? そんなものないよ。逆に長嶋監督には感謝しているんだ」

−−感謝?

「そう、オレたちは誰でも頑張れば"一流"にはなれる。だけど"超一流"に なるには他に運と名声が必要なんだ。あのまま巨人にいて、いくら勝っても存在価値では堀内さんや新浦さんは抜けない。オレはいつまでも3番手の投手。だけどあの事件で運と名声をもらった。あとは頑張れば…。長嶋さんからそのチャンスを頂いたと思ってるんだ」

小林の巨人へのひそかな思いは、彼が現役を引退し野球評論家になったときに偶然、みつけた。甲子園球場での阪神−巨人戦を記者席で一緒に観戦していたときのことだ。われわれは試合を見ながらスコアブックをつける。評論家も同じ。まず、対戦カードを書き込む。当然、トラ番記者の私は「対巨人」と書いた。そして隣の小林を見ると…。「対阪神」と書き入れた。

「やっぱり、巨人の小林でいたかったんだ」。このあとヘッドロックで頭をゴリゴリされてしまった。

(総合企画室長 田所龍一)

■■『江川騒動』の最終決着は交換トレードの白紙撤回?■■

世間一般には江川−小林の交換トレードで決着がついたと思われている「江川騒動」だが、本当は違う。実は"真夜中のトレード発表"から1週間後の2月8日に行われたプロ野球実行委員会で、あらためて「金子コミッショナーの"強い要望"は野球協約違反である」との見解が示され、次のようなことが決定した。

(1)江川と小林の交換トレードを白紙に戻す

(2)巨人は小林を改めて阪神へ単独トレードに出す

(3)江川は阪神の支配下に置き、巨人へのトレード(金銭だが巨人が契約金を払うことで相殺)は開幕日(4月7日)まで認めない

(4)巨人は江川を獲得しても6月6日まで現役選手登録(一軍登録)を自粛する

"強い要望"を撤回した金子コミッショナーはこのあと引責辞任。阪神と巨人には鈴木セ・リーグ会長から厳重注意の処分が下った。「空白の1日」から76日目の静かな決着だった。

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