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離婚、引退、急死…「エース小林」の美学、後悔の電話 江川 騒動 (下)

2011.12.12 MSN [阪神タイガース事件史]

父は知っていた去り際

『男はいつも淋(さび)しいヒーロー』。昭和58年(1983年)、現役引退に合わせて阪神の小林繁が出版した自叙伝のタイトルである。53年12月の「江川騒動」から5年。タイガースのエースとして君臨した小林はその年、13勝14敗1セーブの成績を残し、突如、現役を引退した。

余力を残しての引退をマスコミは小林の"男の美学"とたたえた。はたしてそうだろうか。それならなぜ、小林は自分を「淋しいヒーロー」としたのか。惜しまれながら辞めるのではく、本当はボロボロになるまで投げたかったのでは…と、私は思った。

「さらば阪神よ、小林引退」

58年10月19日のサンケイスポーツ1面には、こんな大見出しが踊っていた。

前日の18日、阪神は神宮球場でのヤクルトとの最終戦のため東京へ遠征していた。トラ番4年目のわたしも甲子園球場での練習を取材し、夜には東京の宿舎に入っていた。ちょうどホテルの部屋で荷物を整理しているときだ。隣部屋の左方直樹キャップから電話が入った。

「コバが引退を考えているらしい。オレはコバを当たるから、お前は他の裏を取ってくれ」

正直、驚いた。いつも小林から「10勝できなくなったらオレは引退する」と聞かされていたが、まだまだ先の話と思っていたし、その年も14敗しているとはいえ、13勝と"引退ライン"は大きくクリアしていたからだ。とりあえず、鳥取県東伯郡赤碕町にある小林の実家に電話を入れた。

以前、息子のシーズンでの無事を祈って母親・悦子さんと一緒に小豆島八十八カ所の霊場を回ったことがあったし、3年前の55年の暮れには、4歳になった小林の長男・優介君を連れて、大雪の中を3人で里帰りするなど、家族ぐるみの付き合いをさせてもらっていた。

電話には父親の進さんが出た。てっきり「知らない」の一言で終わるものと思っていたら…。

「まだ、こちらには連絡は入ってませんが、私には思い当たるふしはあります」

−−えっ、それはどんな?

「2、3年前からあの子は引き際を考えていたようです」

−−じゃぁ、今年になってそんな話はしたんですか?

「ええ、春先にね。そのときは私が『今年辞めたら?』というと『今はまだそういう気持ちにならんよ』といってましたが、もしかしたら、気持ちに変化があったんじゃないでしょうか」

−−変化とは?

「ことし10勝の壁は越えたけれど、あの子自身、力の限界を感じているようですし、きのう(17日)の広島戦に先発しなかったので、何かあるんじゃないかと感じました。あの子はあの子なりに考えて先発を辞退したんじゃないでしょうか」

−−抑えに回るという話もあるんですが

「それは考えられません。抑えに回ってあと何年間かやるよりも、8年連続2ケタ勝利を誇りにして、辞める気になったんではないでしょうか」

−−お父さんは引退することについて、どう思われますか?

「私も辞めた方がいいと思います。でも"辞めろ"とは父親でも言えるものではありません。あの子自身できめなきゃいけないことですから」

小林をつかまえることはできなかったが、この進さんの話が決め手となり「小林引退」のスクープとなった。 


慰留を振り切り

10月19日のヤクルト戦は雨で中止となった。サンケイスポーツの引退報道を受けた小林の緊急記者会見は神宮室内練習場の一室で行われた。その席で小林は、2、3年前に父親・進さんと引退について話し合ったこと、体力に限界を感じていること、自叙伝を出版することすべてを認めた。だが、肝心の「今年で引退する」の一言だけは絶対に言わなかった。それどころか「"来年もやります"って書いとけば。だってオレより勝てる投手はウチにはいないんだもん」

翌20日のスポーツ各紙は「小林引退否定」と「小林引退決意」で二分された。ちなみにサンケイスポーツの1面は「小林、22日にさよなら登板」である。

小林が球団に「引退」の気持ちを伝えたのは8月の末のことだった。何度も話し合いは行われていた。「まだ辞めるのには早すぎる」と懸命に慰留する球団−引退を翻意しない小林。そして10月22日、甲子園球場、阪神の今季最終戦を迎えた。タイガースのエースとして現役最後の縦じまのユニホーム。8−3と5点リードで迎えた九回表、小林は最後のマウンドに上がった。いつもより深く帽子をかぶっているように見えた。

上川に四球、平野を遊ゴロ、大島を三振。田尾には左前打されたものの最後の打者モッカを左飛に打ち取る。捕手の笠間が駆け寄り、一塁からは藤田が、三塁からは掛布が…。小林はマウンドで仲間たちが全員引き上げてくるのを帽子を取って待った。そして一人一人と握手を交わす。阪神・小林の"さよなら"のセレモニーだった。

たしかにまだ十分、投げられる。なのになぜ、小林は「引退」を選んだのか。

小林が両親へ初めて「自分の引き時」について話をしたのは55年の大みそか。ちょうど私が鳥取の実家を訪ね、取材を終えて大阪へ引き上げた日のことだという。そういえば…。

30日の夜、私は小林と枕を並べて寝た。そして、心に引っかかっていたことを布団の中から質問した。

「コバさん、どうしてまだ奥さんと別居してるんです? 優介君や悠記ちゃん(長女)のためにも、元のサヤに戻ったら?」

「そんなことができるか」

「だって変ですよ。今回だって、ちゃんと奥さんからお母さんへ事前に『繁さんと優介が行くので、よろしくお願いします』と連絡が入ってたじゃないですか」

「大人の事情があるんだよ。大人の…」

「事情って?」

しばらく沈黙が続いた。さすがに答えは返ってこないなと思った。もう寝よう…と布団をかぶったときだ。小林がその「大人の事情」を話し始めた。

「宮崎へ出発する前の日にいろいろあったんだ」

−−いろいろって?

「夫婦げんかさ」

−−どうして?

「浮気がバレちゃったんだよ。女房に問い詰められて"知らない"といえばよかったのに、それを認めちゃったんだ」

−−なんで認めたの?

「自分でも分からない。なぜ認めたのか。ただ、正直に話した方がわかってもらえると思ったんだよな。甘かったよ。女房は泣き出すし、オレは明日から宮崎キャンプだし、とにかく"向こう(宮崎)から連絡するから"といって、家を飛び出したんだ」

都内のホテルで眠れぬ夜を過ごした小林。博子夫人はその日のうちに3歳になる優介君と生後2カ月の悠記ちゃんを連れて神戸の実家へ帰ってしまった。

−−宮崎から電話しなかったの?

「できなかった」

−−どうして?

「………宮崎には行けなかったんだ」

集合場所の羽田空港へやってきた小林を待っていたのは、球団が用意していた黒塗りの車。向かったのは長谷川実雄球団社長が待つ東京・紀尾井町の「ホテルニューオータニ」の一室。新館37階5709号室で阪神へのトレードを通告されたのである。

巨人の仲間たちへ別れを告げることもできない。それどころか、後楽園球場のロッカールームに置いた荷物さえ「騒動になるから」と取りに行くことを許されなかった。突然『江川騒動』という大波にのみこまれた小林に、離れてしまった博子夫人の心を取り戻すべき時間も余裕もなかった。

「あのトレードさえなかったら…」

布団の中で言った小林の最後の方の言葉は聞き取れなかった。

お互いに相手を見つめ直すきっかけを失ってしまった2人は2年後、離婚を決意した。

「子供は小林姓を名乗る。子供とはいつでも会える」を条件に小林は、この里帰りの数日前に離婚届に判を押していた。

養うべき者、守らなければならない者を失ってしまった小林。けっして、惜しまれながら辞めたかったわけではない。ただ、ボロボロになってまで投げる"意味"を失っていたのである。

『男はいつも淋しいヒーロー』タイトルに込められた思いがわかったような気がした。

(総合企画室長 田所龍一)

■■早すぎる死■■

突然の訃報(ふほう)だった。平成22(2010)年1月17日、福井市内の自宅で小林は「背中が痛い」と苦しみだした。すぐさま県立病院に救急搬送されたが、その救急車の中ですでに心肺停止状態に陥っていた。病院では懸命の蘇生(そせい)措置が施されたが午前11時過ぎ、帰らぬ人となった。享年57。

19日、福井市内でしめやかに通夜が営まれた。予定の時間よりかなり早く会場へ着いた。整ったばかりの祭壇の前には川藤幸三が座っていた。

「おお、来てくれたんか」「当たり前やないですか」それ以上の言葉が続かなかった。

昭和58年に現役を引退した小林は野球評論家や近鉄のコーチを務めた。だが、けっして幸せとはいえなかった。事業の失敗、再度の離婚、そして平成15年には自己破産。どん底の状態に落ち込み行き場のなくなった小林に「福井へ来い」と誘ったのが、阪神時代に"兄弟"の約束を交わした川藤だった。彼の紹介で地元のゴルフ場に勤めることになった小林はようやく安住の地を見つけ、そして最愛の人(A子さん)と巡り合った。

平成20年、日本ハムの梨田昌孝監督から誘われ二軍投手コーチに就任。そして22年のシーズンから一軍投手コーチへの昇格が決まった。小林はA子さんに一緒に北海道へ来てほしいと懇願した。「もう、家族とは離れて暮らしたくない。ずっとそばにいてほしい」と。そして、札幌への引っ越しがあと数日後に迫った1月17日…。

「早すぎるわい!」祭壇の遺影を見つめる川藤の声が震えていた。

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