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日本はいかにして競泳大国になったのか?
〜北島康介とその時代〜

(スポーツナビ)2012/7/25 10:01

転機になった96年のアトランタ五輪

第二次世界大戦前、日本の競泳は世界をリードしていた。五輪での最高成績は1932年ロサンゼルス五輪で金5、銀5、銅2。戦後も52年ヘルシンキ五輪で銀3、56年メルボルン五輪で金1、銀4、60年ローマ五輪で銀3、銅1。ここまで、日本は「メダル常連国」だった。

しかし、そこから低迷した。64年東京五輪で銅1、68年メキシコ五輪でついにメダルなしに終わると、以後、96年アトランタ五輪まで、約30年間にわたって低迷が続いた。その間、複数のメダルを獲得したのは72年ミュンヘン五輪だけで、そのミュンヘンも、田口信教が金1、銅1、青木まゆみが金1と、メダルを取った選手は2人だけだった。

転機になったのは96年アトランタ五輪だ。この時、久々に才能ある選手がそろっていた。青山綾里、鹿島瞳、千葉すずといった若い選手たちが、96年の世界ランキング1位から3位にあたるタイムを日本選手権で続々と出して、メダル候補としての才能を見せた。しかし、五輪では大きくタイムを落としてメダルゼロに終わった。力がなかったのではなく、持っている力を本番で出せなかったのである。

日本水泳連盟は、ここから変わっていった。才能ある選手はいるのだ。問題は、持っている力を、五輪本番でどう発揮させるかだった。

なぜ、本番で力を発揮できなかったのか。アトランタ五輪のあと、競泳日本代表のヘッドコーチに就任した上野広治(現競泳委員長)には、ひとつの明快な答えがあった。

「それは、チームではなく、個人で戦っていたからですよ」と彼は言う。

競泳の日本代表チームは、さまざまなスイミングクラブの選手が集まった寄り合い所帯だ。かつてコーチは、ほかのクラブの選手には口出ししないというのが常識だった。選手同士でも派閥のようなものが形成され、重圧のかかる大会期間中に、チーム全体で励まし合ったり、先にレースを終えた選手が、あとの選手に役に立つ情報を伝えたりはしなかった。多くの選手が孤立状態で、重圧を個人で抱え込んでいたのである。

日大豊山高の保健体育教師で、スイミングクラブの所属ではなかった上野は、クラブ間の壁を取り払い、代表チームが一つになることに尽力した。コーチ間、選手間のコミュニケーションを図り、他クラブの選手の成功をチームジャパンとして、「自分の成功」のように感じられる関係の醸成を目指した。

年々、代表チームの常識は変わっていった。選手同士が助言し合うようになり、全員が一緒になって泳いでいる選手を応援するようになった。そのような常識ができ上がっていく中で、その後、長く代表チームをけん引するエースが代表チームに入ってきた。北島康介である。


シドニー五輪で女子が躍進

日本が60年ローマ五輪以来の「メダル常連国」として復活したのは、2000年のシドニー五輪だった。メダルを獲得したのは中村真衣(100メートル背泳ぎ銀)、田島寧子(400メートル個人メドレー銀)、中尾美樹(200メートル背泳ぎ銅)、女子400メートルメドレーリレー(中村真衣、田中雅美、大西順子、源純夏=銅)。女子選手ばかりだったが、シドニー五輪の競泳で、アジア勢でメダルを獲得したのは日本だけだった。米国、オーストラリアという2大競泳大国に対抗し得る新しい勢力として、日本が名乗りを挙げた大会だったと言える。

女子選手が飛躍した背景として、選手の年齢層が上がった点は見逃せない。アトランタ五輪の中学・高校生中心から、シドニー五輪では大学生中心になった。女子選手は大人になると体型も変わるため、ピークは10代だと考えられていた。だが高いモチベーションを持って合理的なトレーニングをすれば、大学生になっても記録を伸ばせる。その流れをつくったのが田中雅美だった。男子の強豪校だった中大の水泳部に入って記録を伸ばすと、1年後輩に中村真衣、源純夏が入ってきて、一気に常識を変えてしまった。

シドニー五輪の時、北島康介は17歳の高校3年で、100メートル平泳ぎで4位だった。メダルは取れなかったが、タイムは自己ベストだった。日本の競泳陣では4人の高校生が出場、その中で最もよい成績を収めて次代のエースと目されるようになった。


「世界記録」が現実的な目標に

その翌年、01年に福岡で世界水泳選手権が行われた。テレビ朝日が初めて独占生中継を行ったところ、五輪翌年のため世界的な有力選手は何人か出場しなかったにもかかわらず、視聴率の面でも成功を収めた。これは日本の競泳選手にとって大きな変化だった。

というのも、この成功によって、水泳は五輪だけでなく、2年に1度の世界選手権もテレビで中継されるようになったからだ。露出が増えたことで、企業にとっては、水泳選手を支援するメリットが生まれた。世界大会でメダルを狙える選手であれば、大学を卒業したあとも、企業の支援を受けて、水泳に専念できるチャンスが増えた。この流れの中で誕生した、最初で最大のスターが、北島だったと言える。

北島は福岡での世界選手権、200メートル平泳ぎで銅メダルを獲得。18歳ながら、次代のエースとしての地位を確立した。そして翌年、02年のアジア大会(釜山)で、彼が近年の水泳選手とはスケールの違う、大エースであることを証明した。200メートル平泳ぎで、2分9秒97の世界記録を樹立したのである。

鈴木大地や岩崎恭子といった五輪の金メダリストたちも、世界記録を出したことはなかった。日本人が世界記録を出したのは、1972年ミュンヘン五輪100メートルバタフライの青木まゆみ以来、30年ぶりのことで、この快挙は、他の選手たちに決定的に多大な影響を与えた。

そして翌2003年の世界選手権(バルセロナ)、100メートル、200メートルの平泳ぎで、ともに世界記録で金メダルを獲得すると、世界大会でメダルを目指している日本の選手たちは、こぞって「世界記録」を目標に掲げるようになった。

そして選手たちの口から「目標を高くしないと、練習も頑張れない」といった言葉が聞かれるようになった。この点こそ、北島と、彼を指導する平井伯昌コーチが、日本の競泳界に与えた一番の影響だったと言える。口先ではなく、具体的な目標として「世界記録」を掲げ、そのための練習計画を作るという考え方が、日本競泳界で日常的なものになったのである。


アテネで北島2冠を筆頭に8個のメダル獲得

04年のアテネ五輪では競技開始から2日目に男子100メートル平泳ぎの決勝が行われ、日本競泳陣の中で、北島が最初のメダル、それも金メダルを獲得した。その日の夜、平井コーチは、コーチ・ミーティングで、100メートルに関して北島に授けた戦略を、すべて明かしたという。レース前の調整、レース展開にまつわる戦略、そうした情報は、平泳ぎ以外の種目にも応用できる面がある。北島と平井コーチの、こうしたオープンマインドな姿勢が、チームの一体感をさらに高めた。

結果的に、アテネ五輪では、北島以外に200メートルバタフライで山本貴司が銀、100メートル背泳ぎで森田智己が銅、男子400メートルメドレーリレーで銅、女子の方でも800メートル自由形で柴田亜衣が金、200メートル背泳ぎで中村礼子が銅、200メートルバタフライで中西悠子が銅と8個のメダルを獲得、これは1936年ベルリン五輪で11個のメダルを獲得して以来の成功だった。

またメダリストだけでなく、奥村幸大(100メートル自由形)、松田丈志(400メートル自由形)、永井奉子(200メートル自由形)、田中雅美(200メートル平泳ぎ)といった選手は、4月の日本選手権で出した自分のタイムを、8月の五輪では上回る記録で泳いでいる。アトランタ五輪当時と比べれば、本番で力を出し切れる選手が増えたことは間違いなかった。


北京で見せたチームワークの力

8年北京五輪で、個人種目のメダルを獲得したのは北島、松田、中村礼の3人だけで、北島と中村礼は連続メダルだったから、メダリストだけを見れば停滞しているように見えたが、メダル獲得のレベルではない中で、よく力を発揮できた選手がたくさんいた。藤井拓郎(100メートルバタフライ=6位)、高桑健(200メートル個人メドレー=5位)、上田春佳(200メートル自由形=準決勝進出)、北川麻美(200メートル個人メドレー=6位)といった五輪初出場の選手たちが、日本選手権で出した記録を上回る、自己ベストを五輪でマークした。

北京では、銅メダルを獲得した男子400メートルメドレーリレーの選手選考に関連して、日本代表チームの協力体制を象徴する出来事があった。メドレーリレー4種目の中で、第1泳者の背泳ぎだけ、決勝を泳ぐ選手が、北京入りしたあとも決まっていなかった。100メートルの背泳ぎには、前回大会で銅メダルを獲得した森田と、初出場の宮下純一が出場していた。森田は準決勝で敗退したもののタイムは53秒95で、宮下は準決勝で53秒69を出して決勝に残ったが、決勝でのタイムは53秒99で8位だった。コーチ陣は北京入りして以降の状態から、最終的に宮下を選んだ。森田はアテネ五輪の100メートル背泳ぎの銅メダリストであり、メドレーリレーでも銅メダル獲得に貢献した経験があった。外されたことは、悔しかったに違いない。

こういった時、森田と宮下の関係がぎごちないものであれば、宮下も森田の不満を感じ取って、精神的に苦痛を感じたまま、レースに向かわなければならなかっただろう。

しかし、第1泳者が宮下に決まったあと、森田の見せた態度が、リレーチームの雰囲気をさらによいものにした。自分が出場しないと決まると、森田はビデオ係など、裏方の仕事を黙々とこなした。そして、取材に対しても「レースに出ない人間が、できることで協力するのは当然のこと」と語って、競泳日本代表チームの精神を、身をもって示したのである。

自らのプライドを脇において、レースに出る選手のために働く。こういった行いを当然とするチームであれば、試合に出る選手は「チームメートのためにも全力を尽くそう」という闘志が湧いてくるし、試合の重圧を、チームメートと分かち合っているという実感を持つことができる。「個人で戦うのではなく、チームで戦う」とは、こういうことだったのである。


ロンドンでは2大強豪国に迫れるか?

現在、世界の競泳地図は、米国とオーストラリアが2大強豪国で、これに続くのがフランス、英国、中国、ロシア、そして日本だ。この7カ国を、世界の競泳強豪国と呼んでいいだろう。

国際水泳連盟に加盟している国と地域は200を超えているが、北京五輪の競泳全メダル104個のうち80個を、この7カ国が獲得している。リレー種目は男女で合計6種目あるが、このメダル18個のうち、女子4×100メートルフリーリレーでのオランダの金以外は、すべて上記の7カ国が獲得している。

ロンドン五輪でも、この7カ国がしのぎを削るだろう。競泳日本代表チームは28人。初出場の選手が多く、久々に高校生代表が4人という、北京五輪から大きく世代交代したチームになった。

北島は、ロンドンで競泳史上初の3大会連続2冠に挑む。アテネ五輪のあと、日体大を卒業してからは、スポンサーの支援で水泳に専念できる「プロスイマー」としてやってきた。その間、水泳選手のステータスを、彼が向上させてきたことは間違いない。

その北島を中心に、ロンドン五輪で日本の競泳陣が米国、オーストラリアの2大強国に迫り、世界的な地位の向上につながる活躍を、見せることができるか。注目したい。

<了>
小川勝(おがわまさる) 1959年、東京生まれ。青山学院大学理工学部卒。82年、スポーツニッポン新聞社に入社。アマ野球、プロ野球、北米4大スポーツ、長野五輪などを担当。01年5月に独立してスポーツライターに。著書に「幻の東京カッブス」(毎日新聞社)、「イチローは『天才』ではない」(角川書店)、「10秒の壁」(集英社)など。




最終日の400mメドレーリレーで男子が銀メダル、女子が銅メダルで優秀の美を飾り、終わってみると全部で11個のメダルを獲得する大活躍であった。水泳日本の面目躍如たる結果を残したのである。

「27名全員で繋いで泳ぎました」と、どの選手の口からも同じ言葉が返って来たのは、見事なまでのチームワークを物語るものである。

特に北島選手が3大会連続の金メダルを逃した事に対して、「康介さんをこのまま手ぶらで帰さす訳にはいかない」と残りのメンバーが一丸となって頑張った結果のメダルだったと聞かされると、胸にジーンと来るものがあった。

立派な指導者に恵まれた27人の選手達は幸せ者である。

皆さん感動を有難う!

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