トップ情報日本国民は日本という国をどんな国にしたいのか?>広島、長崎、原爆投下の真実とは・・・

広島、長崎、原爆投下の真実とは・・・

以下のURLに更に詳しく写真と図があります。
http://buzz-bomber.com/japanism/archives/247


原爆の日

大東亜戦争末期、1945年8月6日に米国は、広島へ原爆を投下しました。同年8月9日には長崎へ原爆を投下しました。

当時広島だけで14万人長崎9万人、被爆後5年間で広島だけで20万人の市民が、長崎では15万人の市民が殺されています。

8月9日に第二の原爆を搭載したB29は当初、第一目標地である北九州・小倉の空に飛来したが、数日前の爆撃による残煙と断雲に目標をさえぎられ、第二目標地の長崎市に迂回して原子爆弾を投下した。


米国による原爆投下は民間人大虐殺という戦争犯罪で、米国側が主張する原爆投下により戦争終結が早まり多数の命が救われたということは大嘘です。

理由はともあれ都市爆撃を含め民間人無差別殺戮は当時の国際法に違反しています。 よく二つの原爆投下について、「軍国主義化し、侵略国となった枢軸国の日本を懲らしめるために、アメリカは原爆を落したのである」などと言う人がいます。

困ったことに、そのような「でまかせ」が日教組教育によって日本の子供たちに刷り込まれ、多くの日本人が、無批判にそんな「痴れ言」を何も考えずに受け入れています。

日本は、米国による原爆投下よりも早い時点で、大東亜戦争終結の和平交渉を求めていました。 米国が広島、長崎に原爆を投下出来たのは、日本が原爆を持っていなかったからです。 トルーマン政権による原爆投下の決定に参画したジョン・マックロイは、「もし、日本があの時に原爆を持っていたとしたら、使用することはありえなかった」と話しています。

当時の日本政府は、長崎への原爆投下の翌日、国際法違反であるとしてアメリカ政府に抗議していた。http://www.j-cast.com/2013/08/30182648.html?p=all
それは、原爆使用は、ハーグ陸戦条約の付属書陸戦の法規慣例に関する規則第22、23条に違反しているというものだ。 条文では、交戦国は兵器の選択について無制限の権利を持っておらず、不必要の苦痛を与える兵器などを使うことを禁じている。

これを受けて、日本政府は、使用を禁じられている毒ガスなどの兵器を原爆が凌駕しており、多数の市民を無差別に殺していると非難していた。 そして、戦後になっても、この問題は残り、東京地裁は1963年12月7日、原爆投下は国際法違反であるとした判決を下し、そのまま確定している。

しかし、アメリカ政府は、原爆投下について正当化はしても、これまでに国際法違反と認めて謝罪したことはない。 東京大空襲の前、沖縄で空襲が行われ、日本政府は「国際法違反だ」としてアメリカ政府に抗議していた。

米国が日本へ原爆を投下した理由の一つとして、米国には核実験をする目的がありました。 だからこそ米国は、「広島(ウラン)型」(ウラン235)と、「長崎(プルトニウム)型」(プルトニウム239)の2種類の原子爆弾を投下したのです。


広島に落とされたリトルボーイ(長さ3m、直径0.71m、重さ4400kg、、15キロトン原爆)

長崎に落とされたファットマン(長さ3.25m、直径1.5m、重さ4656kg、21キロトン原爆)


アメリカの政治家は、日本に原爆を落としたのは百万人のアメリカ兵の命を救うためだったと今日なおも語り、アメリカの学校ではそのように教えてきている。 原爆投下の本当の理由を承知しているアメリカ人は当然ながらいる。

トルーマン大統領が原爆を日本の都市に是が非でも投下したかったのは、4年の歳月と20億ドルの巨費をかけた究極兵器の力を議会と国民に教え、戦後の核計画への支持を獲得し、スターリンに対しては、その絶対的な威力を誇示し、脅しをかけるためだった。 皮肉な事に対ソ威嚇という目的も、結果からみれば失敗しています。 なぜなら米国による原爆投下の3日後には、ソ連は一方的に日ソ不可侵条約を破棄して、対日戦線に参加しています。

第三の原爆投下候補地は小倉・京都・東京など諸説あるが、昭和20年8月14日に愛知県に投下された 7発のパンプキン爆弾は、何れも爆撃機が京都上空を経由して愛知県に投下されている事から、第三の 原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている。

戦争中、京都が爆撃を受けなかったのは、アメリカが京都の文化財を守るために空襲しなかったからだ と信じている人が多い。 しかし、これは全くの誤解で京都が残ったのは原爆の目標として温存された結果だった。

正確に原子爆弾の威力を測定するため、通常爆弾との被害の違いを区別できることが必要条件だった。 京都はこれを満たす理想的な目標だった。 原爆投下の照準点は京都駅に近い梅小路機関車庫に定められ京都に対する通常爆撃の禁止命令が出され、古都の街並は原爆投下用にキープされた。

ここで、1945年の五月末から六月、七月に戻ってみましょう。

陸軍長官スティムソンと国務次官グルーは、日本に降伏を勧告するときだと大統領トルーマンに何回も説き、日本側が受け入れることができるように、天皇の地位 保全を約束すべきだと主張した。

それでも日本が降伏を拒否するのであれば、そのときこそ原爆の投下を警告すべきだと説いたのである。 海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍軍令部総長キングもまた、警告なしに日本の都市に原爆を投下することには反対の立場であった。

ところが、トルーマンと彼のただ一人の協力者である国務長官バーンズは、日本に降伏を勧告するスティムソンの草案から天皇の地位保全を認める条項を削ってしまう。 また、スティムソンの草案では共同提案国にソ連の名前が入っていたが、トルーマンとバーンズは、日本がソ連に和平の仲介を依頼していることを日本外務省とモスクワの日本大使館との間の往復電報から知り、ソ連の名前を削り、重慶の国民党政府に差し替えたのである。 日本にソ連への期待を持ち続けさせ、降伏勧告を無視させようとしてのことだった。 さらに、その降伏勧告をホワイトハウス、国務省からではなく、宣伝機関の戦時情報局から発表させた。日本側をして宣伝文書と思わせるようにしたのである。

さて、トルーマンとバーンズは、広島と長崎での“原爆実験”に成功した後、直ちにスティムソンとグルーの計画に立ち戻り、天皇の地位保全を日本側に告げることにした。

戦争犯罪者 トルーマン大統領

「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。

「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、原爆の「実戦使用」に関しては、彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。

しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。

人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。

彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。しかも無警告で。2発も。そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。

彼は自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。

広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。

「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。

だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、

第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」

広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。

まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。


「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を 設置して放射能の影響調査に乗り出しました。

そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写 真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。


その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体と して扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止 し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。

日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと思っています。

広島、長崎に原爆が投下されたあと、米国で原爆開発のマンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所は、二つの原爆投下について、次のように公式に述べています。

「我々は、史上二度の『原爆実験』に成功した。」

「実験に成功した」と述べています。



← Back     Next →