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なつかしき故郷


 10年振りくらいに故郷へ帰ることになりました。私の故郷は道後温泉のある四国の松山です。帰るきっかけは高校時代の野球部の同僚が去年亡くなったのですが、まだお参り出来ていませんでした。今回1周忌を前に何とか時間を割いて2泊3日で予定を組む事が出来ました。彼の家に高校3年生の時約1年間下宿させてもらい大変お世話になりました。

 その彼とは30年近く逢っていませんでした。「一度じっくり話がしたいなぁ」とは思っていましたがこんな形での再会になるとは想像出来るはずもありません。聞くところによると大手の家電メーカーに勤めていて、海外の大きな工場の現地社長をしていたとの事。2000人を超える社員のトップですから、色々な苦労があったのだろうと思います。自分一人の生活ですら大変なのに、そのような立場は一人でやっている私のような者には想像すら出来ません。

 思い起こせば彼と私は対照的でした。舌を巻くほどバッティングの上手い彼は1年生の夏から3番を打っていました。私の場合は下手で結局最後まで公式戦には一度も出場させてもらえないままでした。御多分にもれず四国は大変野球の盛んな土地柄ですから練習の厳しさといったら半端ではありません。「今日辞めよう」、「明日こそ辞めよう」の毎日で、ただやり始めた事を途中で辞めると男がすたるという面子だけでした。今にしてみれば何とも情けない気持ちで一杯ですが、でもそんな事もあって今日の頑張りがあるのかなぁとも思います。

 高校1年の時に家族は広島の方へ引越し、私一人が残って親戚の家から通う事になりました。親戚とはいえやはりわがままは言えず心安らぐといえばやはり音楽を聴くことです。当時無理を言って買ってもらったビクターのアンサンブルステレオが私の宝物でした。英語の勉強に必要だからといってテープレコーダーを中2の時に買ってもらった物も音楽を聴くことに大活躍しました。

 母の姉に当たるその叔母さんも90近い高齢になっていますので、元気なうちに顔を見に行き当時お世話になったお礼を少しさせて頂きました。遅ればせながらではありますが、また改めて言うのもバツが悪いものですが、でも心がスッキリとして何か胸につかえていた物が取れたような気になりました。

 それともう一人の叔母さんは73になります。そこにも立ち寄りお世話になったことのお礼を改めて述べました。私の母は20数年前に既に亡くなっていますので、陰に日なたにお世話になっているわけです。しばらくぶりですから随分と老けて改めて月日の経つのが早いことを感じさせられます。そして親戚とは有り難いものとつくづく感じました。

 私の場合色々なところにお世話になっています。今度はある事情で中3の一時期下宿していたところへ38年ぶりに尋ねました。玄関開けるや否や、「おじさん元気ィ〜」と大声で挨拶、僕解りますか?貝崎です。「いやァ〜貝崎く〜ん、なつかしいな〜」「よく来てくれた!まぁ上がって、上がって」、「おばさんは?」、「あぁすぐ帰ってくるよ」といった後、3分もしないうちに帰ってきた。

 おいこの人誰か解るか?「声には憶えがあるけど、ちょっと思い出せん」。「貝崎くんよ!」「え〜しい〜坊?」「はい!そうです」。「あんたぁ〜そういえば、ガイナことしたよねぇ〜」「うちの秀雄を連れて付けで寿司を好きなだけ食べたよねぇ〜」。すっかり忘れていたけど思い出しました。そうなんです高校受験の時、公立高校1本ですべったら丁稚奉公に行くと決めていたときの事です。

 1日目の試験があまりにも完璧に出来たものですから前祝のつもりで大きな気になって、弟のように可愛がっていた3才下の秀君を連れて「好きなだけ食べろ」といって、腹一杯食べた事がありました。その時僕の考えは2日目のテストを待たずして自信の現れを見せたかったのと、その勇気と決断力みたいなものを「大した奴だ」と、ほめて貰えると思って自信を持っての行動だったのです。

 それがとんでもない判断間違いで、金も稼がない中学生のぶんざいで「付けで寿司を食うとは何事か」といって母からきつく怒られました。しかし、不思議と父は大声で叱らず冷静だったように記憶しています。今振り返ってみますととんでもない事をしたものです。しかし、思い切った事をするところは何となく「自分らしいところがあるなぁ」とも思います。

 翌日の朝はセミを取ったり、魚を釣ったり、トンボやバッタを捕った松山城のお堀を童心に帰って散歩しました。40数年ぶりでしょうか、その時の思い出の木などをカメラに収めました。面白い事に当事はアヒルだったはずなのに何故か白鳥になっていました。白鳥のような優雅さは似合わない、やはり庶民的なアヒルのほうがこういう所にはいいですねぇ。

思い出多き桜の木 変身したアヒル!?

 夕方は、これまた劇的な出会いをした方との再会です。私のお客の(S)さんの紹介で知り合ったのですが、病める飛脚・佐川急便を検証する/と言う本を出されている方で濱田洋祐さんといいます。その会社の理不尽さに対して真っ向から立ち向かって、命を賭けて書かれた本です。お会いするまでに既に本を読ませて頂いてたのですが、初めてお会いして話をさせて頂いている内に学校は違うけど野球を教えてもらった監督が同じ人だと言う事が解りビックリしました。この監督は愛媛県でもいまだに破られていない1試合14?の塁打記録を持っている有名な方です。

 私たちの学校を辞めた後、濱田さんの学校へ行き彼は3年間教わったそうです。忘れもしません、冬の寒い日を選んで、いきなり「グローブの網を取れ」という、一体何をするのかな?と思いきや!グローブの真中でボールを捕る練習だと言って10メートル程先から5〜6人が交代で走って勢いをつけて思い切って投げてくる、それをまともに受けるのですからたまったものではない。冬ですとキャッチャーミットでも痛いぐらいですからその痛さは想像を絶するものです。やった者しか解らないでしょう。

 翌日は手の平どころか手の甲までお椀を伏せたように真っ赤にこんもりと腫れ上がり、息を吹きかけただけでも飛び上がるほどです。また夏の一番暑いときに、サードでノックを受けるのですが両手を縄で後ろ手に縛られ、胸の正面で受けてボールを前に落とせと言うのです。全身アザだらけです、逃げようものなら余計でも早い球が飛んできます。とにかく根性をつけさすのが目的でしょう。それにしてもキチガイ沙汰のようなしごかれ方をしました。

 その日の夜はまた高校時代の野球部の友達二人と会い思い出談議に花が咲きました。その一人ピッチャーをしていた建夫という男が私の事を「お前はろくな奴じゃない」という、「何がぁ?」というと、ブルペンでの投球練習の時、指3本でカーブ、4本で暴投を投げろというサイン。わざと暴投を投げさせ塀を越え隣の商大まで水を飲みに行き、一人で涼しい顔をして帰ってくるという。「そういえばそういう事があったなぁ〜」。

 今度はお返しとばかりに「グラウンドを10周させられる時、1番最初に根を上げてグラウンドに倒れよったなぁ〜、それ以来お前のあだ名は牛よ!」と言って大笑い。いつまでも大きな笑い声が響いていました。この建夫という男とは20年振りぐらいでした。一瞬にして高校生にタイムスリップ出来る、友とはいいものです。


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